10分で読む『恋愛論』ー坂口安吾

10分で読むおとなの『恋愛論』のアイキャッチ画像です 人生戦略概論
こんにちはだいごです。
皆さん恋愛していますか?
意中の人を100%落としたり、気になるあの子とワンチャンするにはどうすればいいのか知りたいですよね?
僕も知りたいです。
それに加えてこの『人生戦略概論』という、人生の指針を示していくことを目的としたブログの中で、坂口安吾が1947年に書いた『恋愛論』からあわよくば何か使えるものはないか、というような気持でこの本を読み始めました。
読んでみると、恋愛のノウハウやワンチャンするためのテクニックのような、僕達の邪な思いを叶えてくれるものではなくて、どちらかというと僕のブログにぴったりな人生における恋愛の役目みたいなものが書いていて、これがまた痛快でめちゃくちゃ面白い。なのでこのブログで取り上げることにしました。

恋・愛・好

安吾は『恋愛論』の中で初めに、恋愛というのは私にはよくわからないと述べた上で、日本語には恋と愛という言葉があるが、外国では愛も恋も同じで人を愛するというように物にも同じ言葉で愛するという。
しかし、日本語では人を愛したり恋したりするものの、物を恋すとか通常はいわない。
恋するという言葉には、自分のものではないが思いこがれるようなニュアンスがあり、愛するという言葉には、既に所有しているものを静かにいつくしむようなニュアンスがある。でもこの恋と愛の二語の間に明確な区別が規定されているようには思えない。
ここで、キリシタンが日本に渡来した頃、愛という言葉で非常に苦労した経験を綴っている。
というのも、キリシタン達は愛すというのは好むということで、人を愛する物を愛する、みな一様に好むという語があるだけだからだ。
ところが、武士道では色恋というと不義となる。
キリシタンは愛を説くが、愛は不義に連なるニュアンスが強いので訳語に苦労したあげく、「大切」と称するようになった。「神のご大切」だとか「キリストのご大切」と訳したのだそう。
実際、僕たちの日常においても愛とか恋とかなんとなく板につかない言葉の一つで、愛するというとなんとなくキザだし、どちらかというと好きという方が本物らしい重さがあるような気がする。
こちらの方は英語のラヴと同じ意味になるんだけど、日本語の好きではチョコレート並みでしかないような物足りなさがあるから、「とても好きだ」と力んだりしてみる。
そして安吾はこれらの言葉の使い分けについて見ていきながら、次のように述べている。
日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情の訓練をも雰囲気的にしている。(中略)
人は恋愛というものに、特別雰囲気を空想しすぎているようだ。しかし、恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。ただ、すきだ、ということの一つなのだろう。
すきだ、という心情に無数の差があるかもしれぬ。その差の中に、すき、と、恋との別があるのかもしれないが、差は差であって、雰囲気ではないはずである。

恋愛は幻影、しかし人生

ここではこのような一文から始まる。
恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。
しかしまだその事実を知らない若者達は、「嗚呼、はいはいそうですか」くらいに聞き流し、その年齢でしか享受できない花や果実を謳歌すればいいのだ。というところに安吾の人間味と、優しさを感じることができる。
ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれまでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。(中略)
永遠の恋などは噓の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。
安吾は教訓について二種類あると述べており、ひとつは先人達が失敗したために後の人もそれをするなと言い切れるものと、二つ目に先人達は失敗し、後の人も失敗するだろうけど、だからと言ってそれをしてはいけないと言い切れないもの。
恋愛は後者にあたり、それは一時の幻影だという立場を取りながらも、恋愛がなければ人生自体がなくなるようなものだというところがまた面白い。
さらに面白いのが、万葉集や古今集に載っているような恋について詠んだ歌が、高度な文学のように思っている人々がいるが、あれは犬や猫がその愛情によって吠え鳴いているのと同じだ。ただ言葉で表現されているだけでなんの変りもない。とした上で、
恋をすれば、夜もねむれなくなる。別れたあとには死ぬほど苦しい。手紙を書かずにいられない。その手紙がどんなにうまく書かれたにしても、猫の鳴き声と所詮は同じことなので、以上の恋愛の相は万代不易の真実であるが、真実すぎるから特にいうべき必要はないので、恋をすれば誰でもそうなる。きまりきったことだから、勝手にそうするがいいだけの話だ。
と痛烈に切り捨てている。
恋愛というのは世代を超えて、変りがなく、初恋でなくとも、何度目の恋でも眠れなかったり死ぬほど不安であったりするものだが、しかしこれほど愛し合っても二三年後には多分にもれず掴み合いの喧嘩もするし、時には他の人に思いこがれる。結婚しても、例外なく倦怠し仇心も起きてくる。
そこでどうすべきかと考える。
人間の生活というものは、めいめいが建設すべきものなのである。めいめいが自分の人生を一生を建設すべきものなので、そういう努力の歴史的な足跡が、文化というものを育てあげてきた。恋愛とても同じことで、本能の世界から、文化の世界へひきだし、めいめいの手によってこれを作ろうとするところから、問題がはじまるのである。(中略)
その解答を私にだせといっても、無理だ。私は知らない。私自身が、私自身だけの解答を探しつづけているにすぎないのだから。
と書いてこの章を締めている。結局は僕達はそれぞれの人生で直面する恋愛問題にその場その時に向き合うしか解決策はなさそうだ。そりゃあ短期的にも長期的にも普遍的な恋愛攻略法があるなら是非欲しい。今すぐ欲しい。
でもほんとにそんなものがあればそれはそれで楽しいのだろうか?とも思う。ワンチャンのチャンスが増えれば男として嬉しい限りだが、どれだけ素晴らしい恋愛テク本が出てきたとしても、現実問題この顔では厳しいだろう。
彼女と別れて、というより突然彼女から一方的にラインもTwitterもブロックされたあげく、電話も着信拒否され一カ月が経った。僕のこのやりどころのない気持ちはいったいどこにもっていけばいいのやら。
この世に生を受けてから一週間ではまだ言葉も話せないし判断力もないので、クーリングオフすらできない。せめて、製造物責任法が適用されてこの顔面に救いの手が欲しいものである。
次にパートナーができるのは何年後になるのやら。はたまたそのパートナーは異性ではないかもしれない。

何を信じるべきか

人は捨てられた一方に同情して捨てた一方を憎むけれども、捨てなければ捨てないために、捨てられた方と同価の苦痛を忍ばねばならないので、なべて失恋と得恋は苦痛において同価のものだと私は考えている。
私はいったいに同情はすきではない。同情して恋をあきらめるなどというのは、第一、暗くて、私はいやだ。
私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ。
まさに今の僕の状況を代弁してくれているかのよう。捨てられた理由は大体わかる。昨年末に浮気していたのを指摘してからバツが悪かったのだろう。当人は反省してなかったみたいだし何故か「そんなこと言う人だとは思わなかった。最低」的な僕が悪かったみたいにされてるし
女性というのは逞しいなと思いますね。それでいいと思います。これからのご時世では自己犠牲的な生き方で幸せになれるとも思えないので、まず自分が幸せになろうとわき目を振らず突き進むその姿尊敬に値します。僕も見習わないとなと思いました。彼女にはそのおかげでめちゃくちゃ振り回されましたけど楽しかったですし。学ぶところも多かったので次に活かすために行動してます。
それはさておき、安吾は恋愛は人間永遠の問題であり、人間の人生というのはそれぞれがせいいっぱいに生きるしかない。問題はただ一つ、みずからの真実とはなにかということでそれについて確信的な言葉は持っていないとしながらも、
ただ、常識、いわゆる醇風(じゅんぷう)良俗なるものは真理でもなく正義でもないということで、醇風良俗によって悪徳とせられること必ずしも悪徳ではなく、醇風良俗によって罰せられるよりも、自我みずからによって罰せられることを怖るべきだ、ということだけはいい得るだろう。
つまり、どういうことかと言うと、通常人の守るべき規範や習慣とされているものなんかは真理でも正義でもなんでもなく、それら社会通念上から良し悪しを決め、自身がやりたいことを抑え込んで後悔するようなことだけはないように。とだけは言える。ってことではないでしょうか。

孤独とバカと人生の花

もはや僕が言うまでもなく人生の現実は辛く厳しいものですよね。どれだけ幸せを追い求めても満たされない人生。
そんなバカげた人生の中で最後に自分を慰めてくれるものとは。
しかし、人生は由来、あんまり円満多幸なものではない。愛する人は愛してくれず、欲しいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口をひろげて待っている。強者ほど、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。
(中略)
人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。
もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる。
(中略)
人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。
むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。
そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。
人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。
それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。
と、『恋愛論』を締めているのであります。
僕自身何度自身のバカさ加減で裏切られてきたことやら。本当に死ななきゃ治らないと思います。でもバカだから挑戦し続けられるのもまた確かなことです。
なんとバカは尊いのだろう!ハレルヤ!
How バカ I am!
ここで孤独が出てくるのがまた面白いですよね。恋愛について書いていてまさかこんな展開になるとは誰が予想できたでしょうか。
バカげた人生に何度も裏切られ疲弊し、孤独の中に安息を見出す。そんな人生にまた一輪の花を添えてくのが恋愛であるという。

まとめ

いかがでしたでしょうか。坂口安吾の『恋愛論』
人生って楽しいですよね。辛いことも多いし、不確実性の中で不安ばっかりだけど
でも、経験から学んである程度はコントロールできたるようになったり。
恋愛もそんな不確実なもののひとつで、僕も早く彼女を作って、身を固めてフラフラするのをやめ子供の成長を見守ったり有意義なものに時間を費やして、大切なものを積み上げていきたい。
独りっていうのは孤独とはまた違っていて、哲学者山本清の言葉を引用すると

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく大勢の人間の「間」にあるのである。

孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。(中略)

孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。

知性は煽ることができないが、感情は煽ることができる。

『人生論ノート』ー孤独について

 

孤独だけが個人の人格、内面の独立を守ることができる。というところに三木は孤独の価値を見出しているんですよね。

言いたいことわかるかな。

寂しいのは独り身の自分であって、孤独は自分を守ってくれるもの

そんな感じ。

 

これはこれで楽しいんだけど。では!

 

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